まえがき
 これからは九大へきてからのことを書くのだが、標題にもあるように、九大そのもののことを
書くのではない。終戦後日ならずして大学にどういう道筋で薬学科が生まれたか、そしてその
形態が如何にして整えられるに至ったか、それがたまたま九大の場合に当り、たまたま私が
そこに居たから、それを書くのである。ご承知のように、その経緯に就いては表向きの記録
(九大五十年誌等)があるが、それに載っていない側面の中に赤裸々な真実と本音が隠れて
いることもあるので、それを伝えておきたいのである。
大に薬学科をつくる
 九大の医学部に薬学科を併置することに就いては、薬理学
の福田得志先生が大変御熱心であった。前編(プレ九大時
代)に書いた薬学と薬理学の協力でビタカンファーが生まれた
ことが、先生の熱意に火をつけたのではないかと私は推測し
ている。それが戦後(昭和二十五年)に初めて実現することに
なったが、文部省は厳しい條件をつけた。
@建物があること、
A設備費六百万円のうち三百万円を寄付で賄うこと等であっ
た(当時の私の月給は一万二千円)。
霊屋敷の怪
建物は法医、衛生、寄生虫教室の改築ができるまでの假りの建物が残っていた。戦後これは
戦災教官の住居に利用された後、放置されていたのでその荒廃はひどかった。これが薬学の
建物として申請された。私はこの建物のことを薬系の新聞から請われるままに堅粕一二七六
番地(当時の番地)のスラム街という題で書いたことがある。まさにその通りで、私は便所はそ
この文化のバロメーターと考えているが、それは極端にひどかった。その有様を少しでも書くと
胸糞が悪くなるので止めておく。何しろこの建物は九大の地図に載っていないから、その意味
でも幽霊屋敷であったが、現実もそれに近かった。夜には作業員の人が見回りすることになっ
ていたが、その一人小林さんはやめさせてくれと言ってきた。
何故かと聞いたら西海枝先生の居室(前、法医の死体置場)の前を通ると頭をおさえつけられ
て足が前に進まぬと言う。馬鹿なと思ったが、人気のない夜のしじまの中でこの廃屋に入れば
心霊現象により、見えないものにおびえることもありうると理解できた。そんな建物であった
が、建物があることに間違いなく、文部省の第一条件を充たした。何はともあれ、これあるが
故に薬学科は生まれたのだから、福田先生を父とすれば、この建物は母である。

付集で苦労する
  一方の寄付金の方は当時不景気であったからそう簡単ではなかった(正規の書き物には
順調にいったように書いてある)。わたしもその交渉に当たったので憶えているが、九州の化
学工業の会社なども、ある会社からは奉加帳通りに出してもらったが、ある会社などは空証
文に終わった。私はこの会社の元役員の紹介状を持って、担当の総務部長に会った。この人
はわが社は約束は必ず守ると云ったが、注文をつけてきた。同社はジクロロベンゼンを作っ
ていたが、パラ(防腐剤)の方は消費されるのに反し、オルソ(白蟻駆除)は残る。苦肉の策と
して、オルソの方をクレゾール石鹸液に混ぜて売ろうとしたが、売れなくて在庫がたまる。それ
でそれを売って寄付金に充ててくれと言うのである。そんなことが大学でできる筈がないので
無に終わった。その後この総務部長は岡崎の私の実家の近くの出身で私の家を知っている
人物とわかった。これが初めからわかっていてもどうなるものでもないが、もう少しまともな返
事をしたのではないかと思った。その他の会社も苦しい時であったので、寄付金の代りに、現
物支給として試製に使う大きなガラス器具を贈ってきた所もあった。しかし全国の概ねの製薬
会社からは約束通り寄付金が入ったように記憶している。

部省に陳情 −されど不完全講座は残った
 かくして條件は曲がりなりにも整い、昭和二十五年を初年度として学年進行で三、二、二と
三年間で七講座が開設されることになった。ところが最後の二講座(薬製と薬剤)は完全講座
として予算がつくかわからぬというニュースが入った。そこでその担当者となるべき私と松村さ
んが陳情のため文部省に行くことになり、政治家に顔の利く加藤藤次郎氏(薬剤師会)が同道
することになった。
 当時の大学局長は劔木亨弘氏(福岡出身)でまずこの人に会った。話を聞いて「それはいか
ぬ」と直ちに担当者に電話してくれたが「そうか、無理かと言ってわれわれに駄目のようだと告
げた。こういう地位の人は決して自分で駄目だとは言わないが、そうかといって、何とかしよう
とも言わない。折角来たから一応の手続きをとってくれるのである。この問題は予算がからむ
から、大蔵省の担当者にも会うことにした。これがなかなか大変でまともには会えない。漸く昼
食を共にする約束をとり、廊下で出てくるのを待った。これを廊下トンビと言うのであるが初体
験であった。
 こういう人はその辺のレストランという訳にはいかないので赤坂の料亭を設営することにした
が、顔もないし、金もない。それで恥しながらある会社の社長に御厄介になることにしたが、九
大の為とあれば仕方がない。来た人物は私の後輩の高校の友人であり、それを話題にしてし
ゃべって去ったが、唯それだけで済んでしまった。その夜は許斐という人(福岡出身)の経営
する東京温泉に劔木さんらによって招待された。これは加藤さんが同行したせいである。ここ
に下関出身の平井義一という代議士も集った。この人は何處かで見た顔であると考えたが思
い出した。私の学生時代、御茶ノ水駅で見掛けた角帽の白紋付き、白袴という出で立ちの明
治大学の応援団長その人であった。そんなことで話しは弾んだが、そのうちに青白い顔をした
痩身の和服姿の人が現れた。皆平身して迎えたが、これが遠山満の御曹司であった。松村さ
んは私によい機会だから盃をもらったらと言ったが、結核を患われたことを聞いていたので躊
躇した。結局ここでは薬学のやの字も出なかった。 私も講座の増設に就いては慣れないこと
を随分やったが、その甲斐もなく第七講座(薬剤)は定員のつかない振替講座として許可され
た。そのため三人のポジションを六つの講座から捻出しなくてはならぬことになった。何處から
出すかは、そこが力関係で、私の講座も助手のポジションが削られた。

くして薬学科七講座は医学部に併設された
 医学部教授会 かくして七講座をもって薬学科は医学部に併設された。従ってわれわれも医
学部教授会に席を置くことになった。なかなか異色ある先生が多くて愉快であった。金関先生
(解剖・人類学)などは会議では専ら教授たちの似顔を描くことに没頭した。これが医学部内で
発行されている九大医報の「教授訪問」という欄に載るのである。ここにかかげてある私の顔
の漫画絵は先生の描いたもので、私のビール好きが頭にあったのであろう。私は先生の描い
たもののうちでは傑作であると思い、その話し を先生にしたら、襃めてくれたのは貴方だけだ
と言った。他の人のは 悪く描かれるから気に入らないのであろう 。

制論文最後の審査
この頃は博士論文も旧制から
新制への切り替 えの時期で 、
新制になると試験が課せられ
るから、論文の持ち込みが 殺
到した。一日平均数十編が審
査の対象となるので、一編の
説明が三 分に制限された。 
そんな訳だから主審を信用する外ない。私の頭に残 っている論文は殆どないが、恋路という
苗字の人の論文があったこと と、次の論文のみ憶えている。それは男のシンボルである二つ
の嚢を箱の中の台に載せ水を充してその温度が調節されるようになっている。私も男の嚢が
体外に出ており、その皺がラジエーターの役をしている位は知っていたが、この研究はザーメ
ンに対する温度の変化の効果を求めたものだ。ただ誰が試験台になったのかを想像した時
に不謹慎にも思わず笑えたので印象が深い。昔東大農学部の教授が男と女が生まれるのは
嚢が二つあるからだとという假説を立てた。そして馬を実験に使い助手に一方を握らせて子
供を作らせたら雄が生まれた。次に他方を握らせたらまた雄が生まれた。教授は激怒してお
前の握り方が悪いのだと言って助手をたたいたという話しがある(これは実話だ)。同じく嚢の
話しだが、確かに前の実験の方が科学的で一人の博士を生むに足りるのかなと思った。

者といえども羽目ははずす −ウッドワードの茶目っ気−
 これから各講座の先生の面影を伝えたいと思うが、先生といえども人間であり羽目をはずす
こともある。前編で述べたような理由で私はそういう面にも触れたいと思う。その前置きに不世
出の化学者と言われたウッドワード(Woodward, Robert Burns)ですら羽目をはずすことのあ
ることをまず述べておく。それによってこれから書こうとすることの私の意図がよりよく理解して
もらえると思うからである。
  かって京都で天然物のシンポジウムが行われ、フグ毒の構造研究の発表が津田グループ
とウッドワードによって同時に行われた。そんなこともあって津田先生がウッドワードを祇園に
招待した。彼は大変な気むずかしい学者だと言われていたせいか、既に面識のある私も緩衝
役として招待されたが、津田グループの人達も同席した。その時、座布団数枚を円形に敷き、
芸者の唄に合わせてそれより一人多い人間がその回りを回り、唄が止まった途端に坐るが一
人残るというお座敷遊びを芸者が始めた。ウッドワードは率先して加わり嬉々として楽しんで
皆を驚かした。この人もその翌日は引きしまった講演をして皆を感動させた。その後で学会の
パーティーがあり、私はクラム(Cram, Donald James)と話しをしていたが、私が既に面識があ
ることを知らずにクラムがウッドワードに私を紹介した。ウッドワードは「I've never seen him」と
言って私に顔を向けてウインクした。私はこの人にこういう側面があったかと嬉しくなり、彼に
対する世評が全く誤りであり、むしろ学者としては尊敬に値するし、人間としては親しみのもて
る人であることがわかった。

学部薬学科の初代教授 −七人の侍−
 薬学科の初代教授は私は別としてよいメンバーが揃ったと思っている。私は若く随分生意気
なことを言ったと思うが、そのために仲違いをすることがなかったのは、他の先生が偉かった
からだ。ここに掲げた漫画は学生の要望により卒業アルバムのために初代のメンバー(濱名
教授のみが二代目)を描いたものだ。 どういう訳か私がハートの中に入っているが、これは学
生諸君の仕業である。当時は講座は番号で呼んだ。
第七回生(昭和33年卆)卒業 アルバムに田口先生が描いて くださった当時の教授の先生 方の似顔絵
右上から下に:
塚本 赳夫 先生(第一講座)、
田口 胤三 先生(第六講座)、
塚元 久雄 先生(第二講座)、
松村 久吉 先生(第七講座)、
百瀬 勉   先生(第五講座)、
西海枝東雄 先生(第三講座)、
濱名 政知 先生(第四講座       第二代目教授)
講座(生薬・植物化学教室)
 担当の塚本赳夫先生(他に塚元先生がいたのでこちらをホンさんと呼んだ)は野副鉄男先
生と共に戦後台北帝大からの引揚者である。学者一家の生れで癌研の塚本憲甫先生は弟で
ある。子供の頃からその兆しがあり、こんな話を聞いた。風呂にコップを持って入り、ガスを捕
集して火を付けたらポンと音がしたというのである。さすが学者一家の人は違う。「双葉より臭
し」だと私はからかった。やまのいも科のヂオスゲニンの研究をされていたが、ホルモンに結
び付けようとされたのであろう。ピアノ弾奏が得意で奥さんの方は歌を唱う。近くに住んでいた
ある医学部教授は当時大学受験の勉強中で喧しいので「下手糞」とどなりに行ったという話し
を最近聞いた。後任の川崎敏男教授(編者注 当時は助教授)は最近亡くなった。私が最も信
頼し、最も親しかった人だったので残念でたまらない。

講座(衛生裁判化学教室)
  担当は塚元久雄教授で薬物代謝の研究で名をなした。その成功の一因は助教授に吉村先
生(編者注 後に教授)のような有機化学者を迎えたことにあると私は思っている。少しも飾る
ことのない人柄で多くの人から元(ゲン)さんとして親しまれた。ウインのワルツに「酒と○と○」
というのがあるがその二つぐらいは好きだった。大学よりの帰途は大体私と一緒でチンチン電
車で帰るが悪いことに中州を通る。「ナカス、ナカス」と呼ぶと降りろ、降りろと聞こえるらしく、
「田口君一杯だけ」とくる。そう言っても一杯だけですまぬのがこの道で結局元さんは酔っ払う
し酔えない性分の私が叱られながら送ることになる。
 大学紛争中のある日、真夜中に学部より電話があり至急出てこいと言う。タクシーを拝み奉
って来てもらって何事かと馳せ参じたら、学部長の元さんが泥酔して横たわっていた。酒の好
きな事務長と渡辺通で遊んできたらしく、悪酔いのなせる業であった。何をしようと憎めないの
がこの人で不思議な人徳を供えていた。しかしこの時ばかりは「早く寝付かせるのが先決では
ないか」と事務長を詰った。元さんは私によく言った「君は不正直だ、自分のしたことを何も喋
らない」と。これは当たっていないが、御自分の方は、とにかく開けっぴろげの人で、この人と
付合うことで心を和やかにしてくれる余り類のない存在であった。今尚感謝している。

講座(薬品製造工学教室)
  担当の西海枝東雄先生は東工大出身で京大を経て着任した。東北辯に愛嬌があり、天真
爛漫で稚気愛すべきところがあった。余り取扱易いとはいえないフルフラールを原料にフラン
化学を発展させ抗菌剤などを作った。ある女性の卒業生が私にこんな話しをした。「先生の講
義に出ようとしたら呼び止められ『どうせ貴女は講義を聞いていないから大丸(当時、呉服町
にあった)へ行って野菜を買ってきてくれ』と頼まれたがこれには参りました」と。奥さんが御病
気であったが、師弟関係の信頼もここまで来れば大したものだ。昭和五十五年頃、先生は重
い病で大阪から九大病院へ移ってきた。丁度私も心筋梗塞の予後の入院中であったが、一
外科の中山教授が私がついていくから見舞いに行こうというので会いに行った。先生は私の
手をとってなかなか離さなかったが、これが別れになってしまった。私はこの先生はわれわれ
の中で最長不倒を記録する人と信じていたし、何のせいか私に対して特別に親愛の情をもっ
ておられたのでこの別れは本当につらかった。

講座(薬化学教室)
  担当の津田恭介教授は薬学伝統の天然物の構造研究(苦蔘アルカロイド・フグ毒)を受継
いだ人で五年位在籍した頃応微研の酒の坂口といわれる先生が津田さんを攫いに来た。私
は付合いが長かったので相談を受けたが止めることが出来なかった。東京へ行ってからはい
ろいろのことを頼まれた。それで私は自分のことを九州における津田出先機関と称した。外国
人の世話が多かったが、最も困った難題はウインの女性を頼まれた時だ。料理が出来るから
その講習会でもやってその収入で九州旅行をさせてくれと言うのである。全く無理な話でそん
なことが出来る筈がなかったが、幸いにある会社が薬の宣伝に九州を回る話があり、そのア
トラクションに入れてもらうことにした。しかし家内は語学ができないので私も行かざるを得なく
なり一週間位休んだ。こんなことが許されるかと思ったが、津田大先生の御依頼とあれば仕
方がない。この文化勲章受章者もウッドワードと同様な人間だからシークレットはないことはな
いようだ。御本人は口が固いから私は聞いたことはないが当時の助教授であった岩井一成さ
んがよく知っている。黄泉の国にいるからそちらに問い合わせないとわからない。

講座(薬品分析化学教室)
  百瀬勉教授は七人の教授のうちで最も教育者らしい人であった。短かったが学生部長を立
派に勤めた。その研究では血糖の定性定量のよい試薬を作ったことで有名である。実験の虫
で実験室に篭ることが多く工作も好きだった。講演会で使われるタイマーもその原型は百瀬式
である。最近この先生にしてこのことありという話を聞いた。東京の銀座に親が博多の芸者で
あった娘がバーを経営しているが、この娘が親から百瀬先生の話しをよく聞いたという。では
「田口は」と聞いたらそんな人は知らないと言ったという。別に珍しい話しではないが百瀬さん
がと思うから楽しくなるのである。この先生の定年後の行き先に就いては一寸ごたごたした。
当時私が学部長であったのでお世話をすることに決め、いろいろと当った挙句、明治薬科大
学に決まった。それもその理事長岩永さん(理学部岩永貞昭名誉教授のお父さん)との電話
一本で決ったのは気持がよかった。普通は理事会にかけてからだと返事が延びるが、岩永理
事長のこの爽快な決定が百瀬さんを思う時必ず頭に出てくる。岩永さんは並の人ではない。

講座(薬品製造化学教室)
  (編者注 田口先生の教室。先生の原文に記述はない)

講座(薬剤学教室)
  担当は松村久吉教授であるが九大病院薬局長を兼任していた。そのため顔を合わせるの
は会議の時か懇親会の時位で機会は他の人に比して少なかった。堂々たる押し出しであるが
温厚誠実で病院の信望は厚かった。私としてはただつまらぬことを覚えている。ある会合の帰
りで「薬院の停留所のそばの屋台のテンプラはうまかばい」と言うので一緒に行き食べたらあ
とでひどい下痢にあった。あの下痢は松村さんと共に忘れない。

━未完━

よか薬会付記
 田口胤三先生は、毎年恒例のよか薬会(薬友会福岡支部)総会・講演会・懇親会に欠かさ
ずお出でくださった。
毎回その懇親会でお話になった「薬学の裏話」は、『田口先生回顧録 私を通しての薬学の裏
物語−プレ九大時代』というタイトルで先生ご自身で文にまとめて頂き、薬友会誌第31号(20
05年1月30 日発行)に掲載させていただいた(<九大薬友会ホームページの福岡支部>も
ご覧ください)。
続編の『九大時代』のご執筆については、『プレ九大時代』の「よか薬会付記」にも記したよう
に、ちょっと渋っておられたが、結局はご承諾くださった。ところが原稿をいただかないままに、
先生とお別れしなければならなくなってしまった。
 「九大時代」を諦めかけていたところ、田口先生には未清書の『九大時代』の原稿や執筆メ
モなどを残しておられたことを先生の奥様よりお聞きし、ご好意でそれらの資料をお預かりす
ることができた。今回掲載させていただいた「九大時代」はそれを整理したものである。他にも
メモ風の、あるいは挿入、削除、行替えなどの多い粗稿も残されているので、今回のご文の末
尾に「未完」を付した。粗稿の整理が可能であれば、「続九大時代」として本誌への掲載をまた
お願いしたいと考えているからである。
 この整理作業中に思わずニヤリとしてしまい、先生のユーモアにみちた語り口を懐かしく想
い出しています。なお、田口先生および奥様との連絡等にご足労をおかけした秋山聖五郎氏
(第13回生、昭和39年卒)に厚く御礼を申し上げます。
                                     (文責:野田浩司)
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